秩父三十四箇所の第9番札所の明星山 明智寺のみどころは何と言っても六角形の美しい観音堂だ。くすんだ朱塗りの柱と白壁がとても綺麗。秩父観光で札所めぐりをする際には足を運んでみてほしい。
秩父三十四箇所の第9番札所 明智寺のみどころは六角形の観音堂
明智寺は埼玉県秩父郡にある臨済宗南禅寺派の寺で、秩父三十四観音霊場の第9番札所、本尊は如意輪観世音菩薩だ。
御詠歌は「巡りきて その名を聞けば 明智寺 心の月は くもらざるらん」である。
毎年正月の1月16日とお盆の8月16日に開催される縁日には、多くの女性や夫婦、小さな子供を連れた参拝客が訪れている。
明星山 明智寺の楽しかったところ
・六角形のコンパクトに収まった観音堂に二本の美を感じた。
明星山 明智寺で得られるもの(ご利益など)
・堂前に延命水の井戸があるので長寿のご利益(飲めません)
・安産祈願
・女人救済
第9番札所 明智寺 へのアクセス
住所:〒368-0072 埼玉県秩父郡横瀬町横瀬2160
明智寺の御朱印
明星山 明智寺 のみどころ
本堂
秩父三十四観音霊場のなかには仁王門があるなど、山門が立派な寺も多いが、明星皿 明智寺は山門はなく、すぐに境内へ入ることが可能だ。
境内に足を踏み入れれば、柱の扉の朱色に白壁のコントラストが美しい観音堂が目に入ってくる。
観音堂は二間六面の六角堂となっており、秩父札所の観音堂の中でも、形として大変珍しい。
如意輪観世音菩薩は恵心僧都の作と言われ、安産・子育ての観世音菩薩として有名だ。
建久2年,明智禅師の開創と伝わる。
如意輪観世音、雲光紋、船形光背。鎌倉初期,恵心僧都の作と言われる。
安産・子育て観音として信仰を集める理由には、大きく2つの言い伝えがある。
子育て観音
1つは寛弘年間 (1004年~1012年)の話で、一条天皇の皇后が難産で苦しんでいた際、恵心僧都作の尊像に祈願したところ、元気な男の子が産声をあげた。
その後、女人難産の苦を救うとのお告げとともに、尊像が飛び去ったと言うのだ。
そして、明るい星の導きにより、横瀬の地まで飛んできたと言われている。
そのため、明智寺の山号は明星山と名付けられたという説である。
もう1つの話は、天正年間(1573年~1592年)の母思いの子供の話だ。
兵衛という名の少年が、盲目の母親と観音堂に籠り、一心に読経を続けたところ、明け方になって母親の目が見えるようになったと言うのだ。
働くことが難しい盲目の母と息子の2人暮らしで、家は非常に貧しく、食べ物にも困り、木の実を拾って食べるほどの暮らしだったと言う。
ある日、兵衛が明智寺の林で木の実を拾っていたところ、老僧が現れ、「無垢清浄 光恵日破諸闇」という仏の呪文を享受したと言われている。
兵衛は母を伴い、観音堂に籠って、母の目が治るよう教えられた呪文を唱えながら、一晩中祈り続けた。
すると明け方、突然、内陣から明るい星が飛び出して母の頭を照らし、母の目がたちどころに開いたという話だ。
この話が村に広まると、領主が親孝行な息子に関心し、親子に田畑を与えたことで、暮らしぶりもよくなったと言う。
そのため、明智寺の山号の明星山は星が飛んで、母の目が開いたからだという説もある。
親孝行な子供に育つとして子育て祈願として親しまれる一方、目の病の治癒にもご利益があるとして信仰を集めている。
一条天皇の皇后が難産の末に無事に男子を出産した話も、親孝行息子の祈りで母の目が治った話も、秩父札所の歴史を記録した「観音霊験記」に残されており、親と子の願いや幸せがつづられている。
文塚
宝永元年建立と伝わる。女人の苦難を救うためのものとされている。古くから多くの女性が祈願に訪れていた歴史から、境内左手の小さなほこらには、女性たちの願いを納めたという文塚と地蔵尊が祀られている点も見逃せない。
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明星山 明智寺 の歴史
明星山 明智寺は建久2年(1191年)、明智禅師が堂を建てて開創したと伝えられている。
文化6年(1809年)年の記録によれば、当時の観音堂は約7m四方で、荘厳なものであったと言う。
だが、明治16年(1883年)に落雷によって焼失してしまい、その後は民家風の仮堂の姿のままだった。
長く仮堂だったが、ようやく平成2年の午歳総開帳の年になって、現在の観音堂に建て直されたので、秩父札所の中では、かなり新しいものだ。
境内の東側には板碑が3基あるが、寺の南東にある天狗山の裏参道から昭和初期に発見されたものと言われている。
西側にある文塚は宝永元年(1704年)に立てられたという道標があり、文塚はかなりの歴史を持つものだ。