秩父三十四箇所の第33番札所 延命山 菊水寺。みどころは土間づくりの観音堂だ。厨子には室町期の作である牡丹の彫刻がある。
山深い場所に位置することが多い秩父後半の札所のなかでは街中にあるが、それでも駅からは遠く歩いていくには距離がある。ここで休憩して最後の札所へと向かおう。
秩父三十四箇所第33番札所 延命山 菊水寺のみどころは土間づくりの観音堂
延命山 菊水寺は埼玉県秩父市にある曹洞宗の寺で、秩父三十四観音霊場の第31番札所だ。
埼玉県秩父市下吉田1104に位置する。
本尊は聖観世音菩薩。
御詠歌は「春や夏 冬もさかりの 菊水寺 秋のながめに おくる歳月」だ。
延命山 菊水寺へのアクセス
住所:〒369-1503 埼玉県秩父市下吉田1104
最寄駅:西武秩父駅小鹿野車庫行バス,泉田下車
徒歩:約30分
延命山 菊水寺 のみどころ
赤平川に沿って田園の広がる野良道を進んでいくと、道端に石標があり、参道が伸びている。
参道の先に入母屋造りの本堂が見え、「正大悲閣」の額が掲げられている。
また、本堂前には厄除地蔵尊と彫られた台座に、お地蔵様が鎮座している。
厄除のご利益を授かるべく、小さなお地蔵さんを備えて拝む人も多く、愛らしい地蔵の姿が目に入る。
延命山 菊水寺 の 観音堂
その昔は、現在の場所より少し離れたところに境内があり、その庭に「菊水の井」という名井があったことで、菊水寺の名で呼ばれるようになった。
本尊の聖観世音は藤原時代の作一木造りの立像で、埼玉県の文化財に指定されている。
また、本尊を模した聖観世音の立像は、室町時代の作と伝わっている。
本堂の土間には「子がえしの絵図」と「孝行和讃の絵図」など希少な絵が掲げられているので、じっくり見ておきたい。
「子がえしの絵図」は、秩父聖人と呼ばれた井上如常が奉納したものだ。
江戸時代には生活に窮した家庭において、わが子を圧殺する、いわゆる間引きが横行していた。
生まれた赤子の口をふさいで圧殺している母親が描かれており、如常はこの絵を通じて、間引きの悲惨な風習を戒めようとし、わが子を圧殺するのは極悪非道の所業だと母親を激しく責めているのだ。
その左側には「孝行和讃の絵図」と、唐の楊夫人がわが子を差しおいて、姑の老婆に乳を与えている風変わりな彩色絵の奉額が掲げられている。
「孝行和讃の絵図」は、「それにんげんと生れては、まづ孝行のみちをしれ」で始まっている。
民間童蒙とも呼ばれているが、お寺で読み書きを教えた際の教科書の役割を果たしたものであり、親孝行いろは歌留多と理解されている絵図だ。
境内には如意輪観音の石碑があり、安産、子育てのご利益があるとされている。
台座には女人講中と彫られており、手を合わせる女性の巡礼者も多い。
延命山 菊水寺 の 芭蕉句碑
亨保三年,芭蕉の五十回忌に造立された埼玉県では最古の芭蕉句碑。
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延命山 菊水寺の歴史
延命山 菊水寺の参道の入り口の寺標は、実は2つ掲げられている。
正面は「大桜山長福寺」、側面が札所の呼び名でもある「延命山菊水寺」と彫られているものだ。
なお、古い長享の番付には、「17番菊水寺小坂下」と記されている。
かつて、小坂下と呼ばれた場所にあった菊水寺を、別当として管理していたのが大桜山長福寺であったと伝えられている。
それには、以下のような背景があった。
永禄十二年(1569年)の信玄焼きによって、観音堂を焼かれ、菊水寺は灰燼に帰してしまった。
そののち、文禄元年(1592年)に清泉寺の六世長山賢道禅師によって長福寺が建立され、菊水寺から救い出した本尊を長福寺に移したと言われている。
この背景で、現在でも2つの寺名が掲げられていると言う。
なお、現在の本堂は、江戸時代後期の文政3年(1820年)の上棟で、間口八間、入母屋造りで千鳥破風流れ向拝を付けた、どっしりとした観音堂であり、きめ細やかな構造上の工夫が見て取れる。
内部は広い土間になっていて、本尊をすぐ近くで拝めるようになっているのもありがたい。
本尊の聖観世音は藤原時代の作であり、本尊を模した聖観世音の立像は室町時代の作という歴史あるものだ。
また、延命山 菊水寺の境内には数基の古碑が立っている。
中でも見どころは、歴史上も名高い松尾芭蕉の句碑であろう。
寛保年間(1741年~1743年)に翁の50回忌に建てられた、秩父地方では最も古い句碑であり、「寒菊やこぬかのかかる臼のはた」芭蕉の読んだ句が刻まれている。