秩父三十四観音霊場の第22番札所の童子堂は茅葺きの仁王門に納められた癖の強い造形の仁王像がみどころ。また童子堂の境内は室町時代に鉢形城の出城のひとつでもあり、本堂裏や近くの畑には堀や堤の跡が残されているため、城マニアにも訪れてほしい札所である。
秩父の第22番札所 童子堂みどころは癖の強い仁王像
埼玉県秩父市寺尾3595に位置する。
本尊は聖観世音菩薩だ。御詠歌は「極楽を ここに見つけて 童う堂 後の世までも たのもしきかな」である。
華台山 童子堂へのアクセス
住所:埼玉県秩父市寺尾3600
最寄駅:小鹿野車庫行きバス尾田蒔学校下車徒歩30分
華台山 童子堂のみどころ
のどかな田舎道を進んだ先に、茅葺きの仁王門が見えてくる。
仁王門
仁王像
左右の仁王像は大きな目を見開き、愛嬌のある顔なのが特徴的だ。
山門の仁王像は、童子仁王と呼ばれており、童子堂の名にふさわしく、子供も怖がらずに足を踏み入れられるよう、工夫が施されたのかと思われてくる。
とげぬき地蔵尊
また、入り口のそばには、子供とげぬき地蔵尊が建っている。
比較的新しく建てられた地蔵尊だが、子供たちの心身のとげ、いわゆる病気や痛みなどを抜き、子供の生涯の健康を守る御利益が得られる。
観音堂
観音堂は童子堂と呼ばれ、江戸中期の華麗な建築だ。
四注屋根、銅板葺、三間四面で周囲には勾欄をつけ、正面の唐戸に風神雷神と、迦陵頻伽の浮き彫り、薄肉彫りの淡彩色の彫刻が刻まれている。
童子堂の鏡天井は極彩色に塗られた蓮花唐草模様で、内陣中央の須弥壇の厨子は金箔仕立ての見事なものだ。
その中に、弘法大師作と伝わる本尊の聖観世音菩薩が安置されている。
地蔵塚
地蔵塚は石舞と呼ばれる石組を模したもので、人々を救い続けてきたことで朽ち果てた六地蔵が奉られている、いわば、お地蔵さんの供養塔である。
子宮地蔵とは、長日城土塁上に寺の宝物を埋めたもので、子供の無病成長を祈願するために建てられた、童子堂にふさわしいものだ。
そのほか、御利益が得られるものとして、空海作と伝わる不動尊像や、病気回復の御利益が得られるという疱瘡石がある。
縁日は5月5日の降誕会と12月18日のお不動様で、御守りとして、童子あめ、童子仁王手ぬぐい、御詠歌手ぬぐいがある。
子供連れで訪れる人や孫へのお土産を買い求める巡礼者も多い。
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童子堂の歴史
童子堂は旧蒔田村・清水谷の山奥に草創されたが、延喜年間(901年~922年)に府坂の地に移され、明治43年(1910年)に現在地に再度、移築された経緯がある。
童子堂と呼ばれているのは、次のような言い伝えがあるからだ。
その昔、子供たちの間に疱疽、現在でいう天然痘が流行したことがあった。
子供たちの苦しみに困った村人たちが、山奥の華臺山から観世音を勧請して祈念し、岩間より生ずる清水をつけると、病がたちどころに消えたと言うのだ。
病魔から子供たちを救ってくれた観音様としてあがめられ、童子堂と呼ばれるようになったと伝えられている。
童子堂は明治43年(1910年)に現在地に移転された時、栄福寺、現在の永福寺の管理下に置かれた。
かつては、童子堂の入り口にあるとげぬき地蔵尊から、現在の県道を隔てた反対側に栄福寺があったと言われるが、現在は虚空蔵菩薩の碑が残るのみで、現在は童子堂の隣の建物が永福寺となっている。
童子堂の由来は、子供たちの間で流行した天然痘を治癒させ、子供たちの霊験あらたかであるからであるが、そのほかにも、次のような言い伝えも残されている。
讃岐国の欲深いとある男は、旅の僧がやってきて、一食の布施を願ったところ、与えないばかりか、ののしったと言う。
すると、この欲深な男の息子が犬の姿に変わってしまった。
驚き、どうにか人間の姿に変えてもらいたいと願ったが、許しを得られなかったと言う。
困り果てた男は、許しを請うべく、犬の姿になった子供を連れて西国、坂東、秩父へと巡礼を続けた。
そして、童子堂を巡礼したところ、子供が元の姿に戻ったと言うのだ。