秩父の第21番札所 観音寺,平将門の戦勝祈願寺

秩父三十四箇所第21番札所 要光山 観音寺。ここの観音堂は矢之堂とも呼ばれている。これは平将門が矢を納めて戦勝祈願をしたという伝承に由来するが、これ以外にも説がある。

秩父の第21番札所 観音寺,平将門の戦勝祈願寺

要光山 観音寺へのアクセス

住所:〒368-0056 埼玉県秩父市寺尾2352
最寄駅:西武秩父駅小鹿野車庫行きバス尾田蒔学校下車徒歩10分
注意事項:駐車場が出づらく見通しが悪いので,車の場合は出入り要注意。

観音寺は埼玉県秩父市にある真言宗豊山派の寺で、秩父三十四観音霊場の第21番札所だ。
埼玉県秩父市寺尾2354に位置する。
御詠歌は「梓弓 いる矢の堂に 詣で来て 願ひし法に あたる嬉しさ」である。

前の札所「岩之上堂」 || 次の札所「童子堂

要光山 観音寺のみどころ

観音堂

本尊は聖観世音菩薩で、火除けの観音様として有名だ。

ここの観音堂は矢之堂とも呼ばれている。これは平将門が矢を納めて戦勝祈願をしたという伝承に由来するが、これ以外にも説がある。

1つは、この寺が、現在の児玉群神泉村だる、当時の矢納村にあったという説。
それを遷座したため、元あった場所の村の名から矢納堂と呼ばれていたのが、その言葉が訛って矢之堂になったという説もある。

2つ目は最も可能性が高いとされる説だが、行基菩薩がこの地を訪れ、八幡宮の社地に聖観音像を祀ろうとしたところ、悪鬼たちが邪魔をしたと言う。
その際に八幡神が現れて、神矢を放って悪鬼たちを追い払ってくれたので、矢乃堂と呼ばれるという由来である。

3つ目の説は、かつて寺が位置していた矢納村の村名は、日本武尊が東征のとき矢を納めて社を建てた場所であり、日本武尊が矢を納めたから矢乃堂という説だ。

そして、4つ目は平安時代に平将門が戦勝祈願のため、この観音堂に矢を納めたから矢納堂とする説である。
いずれの説も「矢」にまつわる話ではあるが、定かではない。

もっとも、観音堂の境内に掲額されている「観音霊験記」によれば、悪霊退治のために矢を放った説が有力である。
「観音霊験記」によると、この土地の邪心や悪霊を鎮めるべく、八幡の神と武甲山の神が力を合わせて矢を放ち、悪霊を打ち倒したと言うのだ。

それを表す伝説の絵図が掲げられ、矢によって悪霊退治をして、この地を守ったことから、矢之堂と呼ばれるようになったと言う。

境内には延命地蔵尊も祀られている。
この地蔵尊は比較的新しく建てられたもので、錫杖をもった優しい顔をしており、長寿、延命の御利益があるとされる。

そのほかにも、境内には真言曼荼羅供養塔、弁財天石塔があるほか、芭蕉句碑や宝篋印塔など見どころも多い。
堂前の道端には地元で活躍した地芝居役者の座長、中村十九十郎の供養碑があり、地芝居が隆盛した当時を偲べる。

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観音寺の歴史

秩父21番札所として観音堂で名が通っているが、現在でも堂の正面軒下には「矢野堂」の額が掲げられている。
観音堂に納められるご本尊が、火除け観音として親しまれているのは、以下のような歴史からだ。
実は、観音堂は大正12年(1923年)の夏に、一度、焼失している。
かつての観音堂の隣には小学校があり、その小学校から発生した火災で類焼してしまったのだ。
その後、倉尾村にあった廃寺を移築して造られたのが、現在の本堂である。
もっとも、火災でお堂は焼けてしまったものの、行基作とされる本尊の聖観世音菩薩だけは奇跡的に運び出された。
本尊が火難を免れられたことから、地元の人たちは火除けの観音様と呼ぶようになったと言う。
現在でも、火除けや家内安全を願って訪れる地元の人は後を絶たない。
本堂は廃寺の移築ではあるが、平成9年には納経所の入った立派な庫裏が建てられ、巡礼者や御朱印をもらう人の拠り所となった。
境内には石碑や塔も多いが、宝篋印塔は宝暦十四年の銘があり、歴史的価値の高いものだ。
また、芭蕉の句碑は大正13年建立されたもので、「しずかさや 岩にしみ入る 蝉の声」の句が刻まれている。
この句は、当地で読まれたものではなく、元禄2年5月27日(1689年7月13日)に現在の山形市である出羽国の立石寺に参詣した際に詠んだ句だ。
松尾芭蕉の有名な紀行文兼俳句集「奥の細道」に収録され、多くの人が知る句でもある。

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