畠山重忠の墓を見物しに畠山重忠公史跡公園に行ってきたのだがまるでパワースポットだった。

平安時代の武将、畠山重忠(はたけやま しげただ)の墓は埼玉県深谷市の畠山重忠公史跡公園内にある。見どころは畠山重忠の墓である五輪塔。武士の墓に相応しい質実剛健な造りで、まるでパワースポットみたいだった。
埼玉県で畠山重忠ゆかりの地を探している人のためにレポを記しておく。

畠山重忠の墓を見物しに畠山重忠公史跡公園に行ってきたのだがまるでパワースポットだった。

この公園はもともと畠山重忠公の館があった場所であるという。
後に畠山氏の館は重忠の父である重能の代に現在の嵐山町の菅谷館へ移ったという。
現在は公園として整備され、園内には広めの駐車場がある。

畠山重忠とは

鎌倉前期の御家人。
武蔵国を代表する武士であった。公正無私にして武勇に優れた鎌倉武士の鑑とされ、数々の逸話が残されている。
しかし、1205年(元久2)北条時政の調略により謀反の嫌疑をかけ られ、武蔵国二俣川で北条義時の軍勢に敗れ戦死した。

畠山重忠公史跡公園の歴史

記念碑には以下のように書かれている。

ここに星霜八百年 千波万化の歴史の中に燦と輝き生き続けてきた文武両道 人德豊かな我が郷土のほまれ 重忠公の遺徳を 後世末永く顕彰し 町民等しく心の支えと 寄りどころにしようと 志す数多くの町民相寄り相諮り、畠山庄司次郎重忠公顕彰会の発足となり趣旨の普及啓蒙に努 めた結果、対多数の町民を始めとし、全国にまたがる遺族関係の方々並びに町内外各種事業所 等々から予期以上の多大なる御協賛をいただき 重忠公ゆかりの ひよどり越えの逆落し の勇姿 を表現する銅像を建立することが出来ました
今、世界の日本として二十一世紀へ雄飛せんとす るこの時世、川本町も時流に先駆け発展基盤の充実が急速に進められる中にあって、温もりあ る心の守りどころとしてこの銅像が数多くの方々の善意と御協賛により建立されたことの尊 さと忘公の心が後世末永く町民の心のふるさととして受け継がれて行くことをこいねがうものといたします。

昭和六十三年四月十六日
畠山庄司次郎重忠公顕彰会 白堂 清水敏一 撰書

畠山重忠公史跡公園へのアクセス

住所:〒369-1107 埼玉県深谷市畠山488
最寄駅:秩父本線永田駅から徒歩で18 分(国道140号 経由)ぐらい。車かバスでの移動を推奨。

畠山重忠公史跡公園のみどころ

現在は公園として整備され、園内には広めの駐車場があり、筆者が相方と到着したときには車内で弁当を食べるサラリーマンや昼寝をする者などが何人か居た。近隣住民には憩いの場所になっているようだ。

畠山重忠の墓(五輪塔)

園内には畠山重忠とその家臣の墓といわれている五輪塔がある。見るべきものはなんと言ってもコレ

これが畠山重忠公とその家臣らの墓である五輪塔がおさめられている祠。内部を覗くと、5つの石が積み上げられた墓が数体祀られている。

真ん中には一等高く積み上げられた五輪塔がある。手前には骨壷を模したような墓石が置かれており、これが重忠公の墓だろうか。

この荒々しさが実に良い

両サイドにはそれらより一段低い五輪塔が複数。家人の墓と言われている。

ちなみに五輪塔とは墓石の形態のひとつ。

地・水・火・風・空の五大を宇宙の生成要素と説く仏教思想に基づき平安時代から広まったものである。

頂点から順に、空輪・風輪・火輪・水輪・地輪とよぶ。
通常、地輪には人命や造立の趣旨が刻まれるというが写真からは確認することが出来なかった。

元来は堂の落成,仏像開眼時の供養を目的のひとつにしていたが、鎌倉時代以後は先亡者の供養や墓石としてつくられ、多くが武士層によって造立された。
単純な形状ながら、その造形には仏教の哲学世界がひそんでおり、多くのことを学ぶことができる。

鎌倉時代の五輪塔は軒厚で四隅を直線で切る火輪,球形の水輪,四角に近い地輪など、全体に隙がなくどっしりした格調の高さが特徴とされている。

まさに重忠公の墓石に相応しい質実な五輪塔と言える。

伊東祐親公の五輪塔しかり、この時代の五輪塔は荒々しいが力強い造形のものが多くて好きだなあ。

畠山重忠の銅像

こちらが畠山重忠公の像。

「坂東武者の鑑」とよばれる重忠公の勇姿を描いた立派な銅像。おまけに愛馬である三日月の姿も。甲冑や太刀なども鎌倉時代のスタイルで再現されている。
まさに「THE・SAMURAI」といった佇まい。地元民からの畏敬の念が伝わってくる造形である。

いまでも墓石が丁寧に管理されているあたり、本当に慕われているんだなあ。
ぜひ北条時政の墓と比べてほしい。

なお、この姿は源平合戦における「一ノ谷の戦い」にて、愛馬である三日月を背負って谷を降ったという「鵯越の逆落とし」を再現したものだという。

重忠公ゆかりの石

重忠公ゆかりの石

重忠公ゆかりの石

これが重忠公ゆかりの石。
この石の上に物を置いたり、腰掛けたりすると頭痛が起きるとされている。
全部で三個あったらしいが、昭和中期に所在不明になってしまったそうだ。

しかし、座るには丁度いいカタチをしているな。決して座ったりしないが。

伽羅の木

畠山重忠公史跡公園にある伽羅の木

畠山重忠公史跡公園にある伽羅の木の看板

この伽羅の元木は畠山重忠公ゆかりのある名木で、浦和市の常盤公園にあり、市の文化財となっ ています。
永い年月を経て老化し たため、二世を挿木により採取 、その苗木を川本町が譲り受け育 てたものです。

畠山氏が秩父に住み秩父氏を名 乗っていた頃、先祖の墓地にあった伽羅で、富山に移つた後、墓は 取こわされ、土花の名主の庭に移 植されたものといわれています。 その後転々として手入れをするものもなく過ぎましたが、明治の初期、武蔵国留守総検校職の畠山氏に関係がある、浦和裁判所が設置 されるのを機に、その庭に植付ら れ、後に裁判所が移転したので、 現在の常盤公園となったものです。

「この伽羅の木は畠山氏発祥のこ の地に平成**(読めない)年四月植付られたものです。
この伽羅の木が立派に育つよう見守って下さい。

と書かれている。

伽羅の木は仏教と縁のある樹木でもある。

深谷市指定文化財 板石塔婆

畠山重忠公公園内にある深谷市指定文化財「板石塔婆」

畠山重忠公公園内にある深谷市指定文化財「板石塔婆」

板石塔婆あるいは板碑とよばれるもの。

鎌倉時代に興ったもので、板状の石を用いた卒塔婆の一種。供養塔であり、墓石の意味も持つ。
五輪塔が簡略化したものや山伏のもつ碑伝の系統をうけたものと,その成立に二つの見方があるという。

簡単な形であることから従来の石塔にくらべて一般の武士層でも造立されるようになり,鎌倉新仏教の興隆とも関わると言われている。

用材としては、各地域に産出する石材が用いられた。
大分・東北地方では凝灰岩,四国・関東では緑泥片岩が多用され,とくに埼玉を中心とする関東各県で多く見られ、中世の石造物,仏教信仰の内容,豪族や武士の展開などをさぐるうえで重要と考えられている。

畠山重忠の墓
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