比企一族のその後を伝える埼玉県の金剛寺で比企一族の墓を見てきた。

埼玉県比企郡川島町にある金剛寺周辺は比企能員の館跡(比企館跡)があったとされている。また金剛寺の境内には比企能員の乱で殺された比企一族を弔う墓(比企氏墓所)が存在する。なんでも比企能員の乱を生き延びた子孫が建てたもので、比企一族のその後を知ることが出来る。

金剛寺の個人的評価

金剛寺には江戸時代につくられたと思しき比企一族の墓が並んでいる。比企一族の足跡を辿りたい人には一度は訪れてほしい場所だ。また比企郡にはその名が示す通り、比企一族とゆかりある場所が複数存在する。
オススメは比企能員が復興した岩殿山正法寺。ここは坂東三十三箇所の構成する名刹なので一度は訪れてほしい場所である。

比企一族のその後を伝える埼玉県の金剛寺で比企一族の墓を見てきた。

金剛寺 の楽しかったところ
・何といっても比企一族の墓

金剛寺 で得られるもの(ご利益など)
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金剛寺 はこんな人におすすめ

・比企能員が好き
・比企能員や比企一族ゆかりの地をまわりたい
・比企一族のその後について触れたい
・歴史に興味がある

金剛寺 へのアクセス

住所:〒350-0165 埼玉県比企郡川島町中山1198
注意事項:山門側は住宅街なので車を止める場所はない(駐車場は裏側)


金剛寺のみどころ

山門

こちらが金剛寺の山門。

なんでも国の有形文化財に指定されたのだとか。

貼札も少なく、綺麗に整っている印象。

龍の彫刻。

本堂

さっそく大日堂と比企氏墓所の案内がある。

鐘楼堂

これが鐘楼堂。お堂と中央に吊り下げられた鐘が歴史を感じさせる。

大日堂

これが文化財に登録されたという大日堂。大日堂とは大日如来が安置されているお堂のこと。この中に大日如来像があるという事かしら。

そんなことを思っていると、境内を掃除していた御住職と遭遇。軽くご挨拶をして比企氏墓所について説明して頂けた。
これぞまさに仏様のお導き!大学生に間違えられたけどね

比企一族の墓(比企氏墓所ともいう)

御住職のご説明によれば、比企の乱にて一族の殆どが抹殺されてしまったが、比企能員の妻妾は何とか生き延びることが出来たという。このとき娘は妊娠しており比企氏と縁の深い宗悟寺の住職に匿われたのだとか。

このときに生き延びたのが比企能本(ひきよしもと)で、成人後は仏僧となり順徳天皇に仕え佐渡ヶ島の配流にも付き従ったたとも言われている。

承久の乱の後は鎌倉に戻り妙本寺を建てた、というのが世間で知られている話。

ほほーん、これが比企氏墓所ですか。右にいくほど背が高くなってますな

比企氏の墓である宝篋印塔や仏像。

延宝期の石仏像。桃山から江戸時代にかけて仏像彫刻は下火になっていたが、民間では石仏が多く作られたことで知られている。芸術的価値のあるものは少ないと言われるが、仏像とは拝むべきもの。そういった事をいうのは野暮ってなもんよォ(江戸っ子)

寛永期に建てられた宝篋印塔。鎌倉時代の宝篋印塔ならば隅飾突起が直立しているのが通常だが、江戸時代の宝篋印塔は隅飾突起が反り返って彫刻過剰なものが多く宝珠が尖っているとされているので、その時代のもので妥当だと思う。
比企能員というよりかは比企一族の墓ですな、文字道理。

比企能員というよりかは比企一族の墓ですな、文字道理。

こちらも元禄期のもの。右の比企員之(?)のものは屋根が崩れてしまっている。

歴史的人物の墓が複数ある理由
なぜ埼玉にも比企の墓があるのかと言われても別に不思議な話ではなく、この時代での「墓」の概念は遺体が埋まっている場所だけではなく、死者を弔った場所が墓になるから。なので墓が複数あるのは不思議な話でもなく、他の墓が偽物という訳ではない。
なので「●●●の墓」と認められている場所なら、そこは●●●の墓という訳である。


金剛寺の概要と解説

金剛寺の歴史

金剛寺の看板には以下のように書かれている。
比企氏と歴代墓地 東鑑によると.わが郷土出身の武将比企藤 四郎能員は一族とともに北条氏に滅亡される。 〈比企氏の乱 鍵酢二月。 〉 能員は娘若狭局」を二代将軍頼家に嫁がせ、 その子一幡が生まれてからは、北条時政・政子 らと対立て権勢を誇っていたものと思われる。
能貢·時員親子らの墓は鎌倉市 比企谷 日蓮宗 妙本寺にあるが、その後数代を経て、 天正のころより、当時一帯を館とし、住居を 構えるようになる。 すなわち、政員 ・則員・義父・重見・久員・稚久ら以降である。 なお位牌堂(大日堂) 天井の竜にまつわる 伝説がある。

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