吉原弁財天,ここは関東大震災でおきた大火災から逃れようとした遊女達が池に飛び込み大量に圧死したという悲劇が残る場所である。
近年では吉原神社と合わせてパワースポット扱いされているが、この場所はダークツーリズムのスポットでもある悲しい歴史が詰まった場所なのだ。
吉原弁財天,関東大震災で遊女たちが大量死した場所
〒111-0031 東京都台東区千束3丁目20−2
吉原弁天池跡と関東大震災
関東大震災で最も被害を受けたのが吉原遊廓だった。当時の吉原では遊女の逃亡を防ぐため出入り口が大門のみという構造だった。このため、拡がる火災から逃れようとした遊女たちが次々と弁天池に飛び込み、溺死・圧死する事になったという。この災害でなくなった遊女の数はおよそ490人と言われる。
これ以外にも吉原遊廓は明治44年の吉原大火や後の東京大空襲などで度々全焼。数多くの死者を出した場所でもある。そのため巷では心霊スポット扱いされている訳だが、さもありなん。
弁天池
なお吉原の弁天池は昭和34年(1959年)に吉原電話局の建設の際に殆どが埋め立てられ現在は僅かな池が残っている。その場所には色鮮やかな錦鯉が泳いでいるのだが、罰当たりにも鯉を盗む輩がいるそうで境内には看板が立てかけられている。
吉原観音
積まれた岩山の上に立つのが吉原観音。なんでも大正十五年に建立された歴史のある観音像との事で、前述の関東大震災で亡くなった人々を慰霊するために置かれたもの。
戦災無縁塔
観音像の下には戦災無縁塔と書かれた無縁仏を祀るお墓がある。
遊女になる女性は、そのほとんどが身売りという形で吉原にやってきた女性だ。
江戸幕府では人身売買が禁止されていたが、実際は、貧しい親が給金の前借りと引き換えに、娘を遊女屋に売り渡していたという。
表向きは奉公という形を取ってはいたが、実質的には人身売買と同じだったと考えられている。
親が直接、遊女屋に売る場合もあったが、たいていの場合は女衒が仲介になっており俗称では「人買い」、「周旋屋」「口入屋」「玉出し屋」ともいわれた。
庄司甚内という人物は吉原開設にあたって、人さらいを取り締まると豪語していたが、実際には明治時代になっても存在し続けた。
女衒による契約内容はひどいもので、親の権利はすべて養父に渡され、変死の場合でも、実の親から抗議をすることは出来ず、それらを知らされれることも無かったという。
そんな有様だからか、遊女が死亡した際の扱いも酷いものだっという。
死亡した遊女は若い衆が死体をムシロに包んで、投げ込み寺まで運び、墓地の穴に投げ込んで終わり。
供養などはいっさい行われなかったという。
明治維新後も扱いはぞんざいだったようだから、これらの墓は江戸時代から続く無縁仏(遊女)たちを弔うためのものなのだろう。
よくもまあ祟られなかったな。
蛇塚
そして何故か蛇塚が置かれているのだが、当時(江戸時代)の吉原周辺は田んぼが多い湿地帯でもあったようで非常に多くの蛇が生息していたそうだ。
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