比企能員の娘が住んでいた比企西国三十三ヶ所観音霊場のひとつ宗悟寺

比企能員の娘である若狭局、鎌倉幕府第二代将軍である源頼家との悲恋が有名だが、その若狭局ゆかりの場所のひとつが埼玉県東松山市にある宗悟寺(そうごじ)だ。この周辺には比企能員の館があったとも言われている。
また、ここは比企西国三十三ヶ所観音霊場の33番札所でもあるお遍路コースのひとつでもある。

宗悟寺の個人的評価

比企能員をはじめ比企一族ゆかりの地をまわりたい人には外せない場所。近隣には比企能員の娘である若狭局が串を投げ入れた場所である串引沼があるのでウォーキングがてら散策したい人は行ってみるのも良いんじゃないだろうか

比企能員の娘が住んでいた比企西国三十三ヶ所観音霊場のひとつ宗悟寺

宗悟寺はこんな人におすすめ
・比企一族ゆかりの地を探している

宗悟寺 へのアクセス

最寄駅は東武鉄道東上本線森林公園駅
徒歩で60分ぐらい。
注意事項:駐車場に続く坂道が急なので車注意。


宗悟寺 のみどころ

入り口

看板が立っているので近くまでくれば迷うことはないと思う。

山門

なかなかに歴史を感じさせる山門。扇谷と書かれているが、同名の地域が鎌倉市内にもある。

境内は広い。内部には比企一族の顕彰碑などが置かれている。

なお、金剛寺の住職によると比企能員が殺された後、その一族を保護していたのがこの寺の住職だったそうだ。
その時に娘(若狭局)は妊娠しており、住職が匿っていたおかげで比企の血筋が完全に途絶えることは防がれたという。


宗悟寺 の概要と解説

宗悟寺 の歴史

源頼朝の乳母である比企尼が、夫の死後に比丘尼山(びくにやま)に草庵を結んだのが始まりと言われている。
源頼家の死後、比企能員の娘である若狭局(頼家の側室)が、伊豆の修禅寺で暗殺された頼家のため壽昌寺を建立したとされる。
その後、1592年に武蔵国比企郡を与えられた森川氏俊が壽昌寺を現在地に移して再興。
その際に宗悟寺と改めて森川氏の菩提寺になったのだとか。

また、宗悟寺の周辺は比企能員の館跡だったとも言われている。
比丘尼山の由来とは言うまでもなく、比丘尼(ひきのあま)であり、同地には若狭局が頼家の形見の櫛を投げ捨てたという串引沼が存在するため、そう言われてみればコチラに館があっても不思議ではない気もする。

その一方で、比企氏の館があった場所は金剛寺周辺とも言われている。

比企尼とは
鎌倉幕府初期の有力御家人である比企能員の叔母。ごぞんじ源頼朝の乳母を務めていた事から、頼朝が征夷大将軍就任後に比企能員が権勢を振るうことが出来たのは比企尼のおかげと言われている。

若狭局とは
比企能員の娘で鎌倉幕府二代将軍源頼家の妻妾。頼家が17歳の時に長子一幡を生むが北条時政の謀略により一族もろとも殺害されたと言われている。

源頼家とは
源頼朝の嫡男で鎌倉幕府第2代将軍。母は北条政子。18歳で家督を継いだが、習慣を無視してやりたい放題やってしまった為に北条氏を中心に十三人による合議制(これが「鎌倉殿の13人」の由来)がしかれるも、これが原因となり有力御家人間で内部分裂が起きることになる。

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