若狭局ゆかりの串引沼に行ってきたんだが、ここを観光スポットにするとか正気ですか?

鎌倉殿の13人の主要人物でおなじみ比企能員の娘である若狭局(わかさのつぼね)ゆかりの地が埼玉県にある串引沼だ。鎌倉幕府二代将軍源頼家の側室だった彼女が形見の串を投げ入れたことから串引沼という名前がついたらしいが、これがまた面倒くさいところにありましてな。

正直、ここを観光スポットにするとか無理な気がするんだが。 

おすすめ度

評価 :1/5。

串引沼の個人的評価

どう見てもカントリークラブ内にある沼にしか見えず、本当に歴史ある場所なのかと疑いたくなる。
長い時間かけてたどり着いた場所がこれでは達成感もないというもの。
近隣で比企ゆかりの場所といえば、若狭局を匿っていた宗悟寺や比企氏の館跡があったとされる金剛寺などがある他、頼朝の命を受け、比企能員が復興した岩殿山正法寺などがある。特に正法寺は坂東三十三箇所の名刹として名高いのでそちらをオススメする。

若狭局ゆかりの串引沼に行ってきたんだが、ここを観光スポットにするとか正気ですか?

串引沼 の楽しかったところ
・ 串引沼まで向かう道中での相方の慌てぶり

串引沼 の注意点、欠点:
・車が一台通れる程度の道幅しかないので行くなら歩いていったほうが良いだろう

串引沼 へのアクセス

東松山カントリークラブの裏手

最寄駅は東武東上線森林公園駅、徒歩だと60分以上はゆうにかかる。
注意事項:とにかく道が狭いので車で行くのはオススメしない。


串引沼 のみどころ

串引沼までの道のり

宗悟寺の近くにある農道を入って行くと「大谷の伝説コース」と書かれた看板と地蔵があるので道なりに進んでいく。

見よ、この道の狭さ。
軽自動車がギリギリ一台通れる分の広さしかない。対向車が来ようものなら立ち往生は必至である。

最初は目的地がわからんので山を一周してしまったが、道中は常にこんな感じ。ちなみに運転しているのはワシじゃなくて相方。

ワシだったら確実に脱輪してたね!相方に感謝である。

写真を見ていただければお判りの通り車一台が何とか通れるレベルの狭さ。対向車が来たらどうにもならん。

串引沼の全容

そんなこんなで目的地に到着。

どっからどう見てもカントリークラブの敷地内。本当にここが伝説の串引沼なのかと疑いたくなる。

櫛じゃなくてゴルフボールが見つかりそうだ。この、いかにもゴルフ場という景観がすべてを台無しにしている。一応は歴史的なスポットなんだから、少しは大切にしたら良いのに。
なお、グーグルマップ様の案内によれば、この隣に比丘尼山横穴墓群という古墳時代の遺跡があるそうだが、薮だらけで見つけることは出来なかった。

謎の石仏。かつては神社仏閣があったことが伺われるが現在はただのゴルフ場。

串引沼と若狭局の悲話

「ホントにここで合ってるのか?」と首を傾げていたら、相方が「串引沼と若狭局の悲話」と書かれた看板を発見。
やはり、ここであっているらしい。看板に書かれた悲話とは、前述の形見の櫛を投げ捨てたというもの。

看板には以下のように書かれている。

串引沼と若狭局の悲話

比企一族の里である当地にはいくつかの史蹟や伝承が伝えられています。 その一つが若狭局の悲話です。比企能 息女若狭局は二代将軍源頼家公 の夫人になりましたが、夫の源頼家公が閉の地、伊豆修善寺で害せられるや位牌をたずさえて故郷に帰り、比丘尼山の麓に草庵大谷山寿昌寺を結 び、夫の菩提を弔ったと伝えられています。 「若狭局は亡き夫頼家公の唯一の形見である鎌倉彫りの愉を眺めては往時 を偲び涙にくれていました。

痛ましい孫娘の姿を見るに見かねた比企禅尼 は悩を捨てて思いを断つように言いました。若狭局は泣く泣く悔を沼に放 ちました。この悲話を伝えるのが串引沼です。

比企一族顕彰会では、この悲話を題材にして、紀元二○○○年のミレニ アム記念フェスティバルにおいて四回目になる郷土史劇「滅びざるもの」 (湯山浩二作、東松山市民劇場制作)の上演にあわせて創作日本舞踊 若狭 (比企一族顕彰会作詞、今藤長龍郎作曲、花柳せいら振付)を制作、発表 いたしました。

また、比企一族顕彰会では紀元二〇〇一年の比企一族八○○年遠忌にさ いして比企氏を中心に郷土の歴史や伝統芸能、そして比企の山河をコンパ クトにまとめた映像「比企讃歌」(斉藤次男演出、朝田健治撮影、和田篤 朗読)を制作し上映しました。

なお、この地に植樹された頼家桜は 伊豆修善寺町の篤志家 野田正尚氏よ り贈られたものです。
この案内板は比企氏の八○○年遠忌 に因んで設置いたしました。
創作日本舞踊「若狭」から きり絵 後藤伸行
平成十四年十二月吉日
比企一族顕彰会


串引沼 の概要と解説

串引沼の概要

頼家の側室であった若狭局は形見の櫛を大切にしており、頼家を偲んでは涙にくれていた。
それを見かねた比企能員の妻である比企尼が、櫛を捨てて思いを断ち切るように諭したのだという。

その若狭局が泣く泣く櫛を捨てたのが串引沼だとされている。

若狭局について

若狭局は鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府の有力御家人である比企能員の娘。鎌倉幕府二代将軍源頼家の妻妾。頼家の妻妾となった若狭局は1198年、頼家が17歳の時に一幡を生む。

だが、一幡が6歳になった1203年8月に頼家が病で危篤状態に陥り、家督相続を巡り若狭局の一族である比企氏と、頼家の外戚である北条氏との対立による比企能員の変が起こる。

そして9月2日、能員が北条時政によって謀殺されてしまう。一幡の屋敷である小御所に立て籠もった比企一族であったが、北条義時率いる大軍に攻めらてしまう。一族は屋敷に火を放って自害し、一族は滅亡となる。

北条得宗家の歴史書である『吾妻鏡』では一幡と若狭局の母子はこの際に焼死、別の歴史書である『愚管抄』では一幡は母が抱いて逃げ延びたが、11月になって北条義時の部下によって殺害されたと考えられている。

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