北条義時夫妻の墓がある静岡県伊豆の国市にある巨徳山北条寺

静岡県伊豆の国市にある北条寺(北條寺)には鎌倉幕府の二代執権である北条義時が開基した寺。ここには北条義時夫妻の墓があるため、鎌倉殿の13人を観て北条義時の墓参りがしたいと思った人は参拝してみてはどうだろうか。
また、伊豆八十八ヶ所の第13番でもあるので、お遍路ついでに史跡をまわりたい人にもオススメだ。

巨徳山北條寺の個人的評価

伊豆の国市の北條寺にある北条義時夫妻の墓。正式な墓は鎌倉市内にある法華堂跡だがこちらの方が墓参りした感を味わえると思う。

北条義時夫妻の墓がある静岡県伊豆の国市にある巨徳山北條寺

静岡県伊豆の国市にある北条寺に行ってきたのでレポ。寺の境内には北条義時夫婦の墓所がある。

巨徳山北條寺の楽しかったところ
小四郎山の頂上から見える景色

巨徳山北條寺はこんな人におすすめ
北条義時の墓参りがしたい
北条義時が好き
史跡に興味がある
お遍路ついでに史跡めぐりをしたい

巨徳山北條寺の注意点
仏像と文繍帳は通常非公開。団体の場合は拝観できる場合がある。

巨徳山北條寺へのアクセス

住所:〒410-2221 静岡県伊豆の国市南江間862−1
最寄駅:伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅
徒歩:約15分

寺宝
「木造観音菩薩坐像」
静岡県指定文化財 国重要美術品(昭和一三年認定)
南北朝時代の作。中国宋代風の像容である。

「牡丹鳥獣文繍帳(ぼたんちょうじゅうもんしゅうちょう)」
また、北條政子が奉納したとされる「牡丹鳥獣文繍帳」 三張が伝来している。
観世音菩薩像は中国宋風の仏像であり、鎌倉極楽寺にあったものを北条政子が北條寺に奉納した

北条義時邸跡の近くを進んでいくと、すぐに辿り着く。

1区画25万円ですか。それが高いのか、安いのかよく判らん。


巨徳山北條寺のみどころ

山門

清潔感のある山門。掃除がきちんとされていて清閑な印象。


扁額。新しく作り直したのだろうか?傷んでるところがなく、とても綺麗。

天満宮

なんと、天満宮がある。天満宮とは天神さま(菅原道真公)を祀る神道の施設。
神仏習合が進んだのは8世紀の奈良時代ごろと言われているから、鎌倉時代に由緒のある寺ならば神道関連の施設が残っていても不思議ではないかも。

こういうのを見ると、ほんとに歴史のある寺なんだなあと感じる。

イヌマキの木
菩薩像

宝冠に胸飾り、流れるような衣をつけているので、菩薩像。間違ってたらスマン

参道

境内にある丘の上(小四郎山)に、北條義時夫妻の墓がある。この石段を登っていくと目的地に辿り着ける。
小四郎とは北条義時の別名である江馬小四郎に由来。

険しく見えるが手すりも付いてるし、綺麗に整備されているので踏破するのは簡単な方。足元に注意して一段、一段丁寧に登っていくのが怪我しないコツ。もっと険しい階段ありますからね。

よく手入れされている。参拝したときには老夫婦が掃除をしていたが、お寺の関係者だろうか。ワシみたいなブロガーが気軽に墓マイラー出来るのも、日々手入れしてくれる関係者のおかげ。感謝せねば。

北条義時夫妻の墓

道は険しいが、頂上の敷地はそれほど広くない。その敷地の中央に義時夫妻の墓がある。

ようやく辿り着いた、これが北条義時夫妻の墓。向かって 右が義時、左が後妻(佐伯氏の娘)の墓であるという。

北条義時は時政の次子で、源頼朝夫人である北条政子は姉にあたる。幼少より江間の館に育ち、 江間小四郎と称しており、頼朝の旗挙げ以来、父の時政、兄の宗時とともに従い大功があった為、重臣となったが鎌倉幕府三代将軍である実朝の死により、源氏の正統が絶えてしまう。

京都より頼朝の姉の曽孫にあたる 藤原頼経を迎えて自らは執権となりを極めたが、鳥羽上皇はその専横を憤り、承久三年 (1221年)に院宣を下して義時を討とうとする=承久の乱

義時は子である泰時らに大軍を率い て京都に攻め上らせ、官軍を破り、 帝を廃し、後鳥羽、順徳、土御門の三上皇を配流した。

だが、義時は承久の変から三年後の六月十三日に急死、 六十二才の生涯を閉じた。
その後、長男・泰時は、北条氏発祥の地であるこの寺に墓を建てたという。

が、義時の妻の墓石には伊賀守藤原朝光娘と銘が彫られているので、説明にある「佐伯氏の娘」とは食い違っている。
実際のところは、よく判らない。

北条義時夫妻の墓

一見すると気づかないが、よく見ると五輪塔の形式になっている。他の武将のそれと比べると、かなり細長い形状をしている。

小四郎山から見える景色

方角が違うので富士山は見えないが、なかなかの景色。歩き通しだった疲れが少し吹き飛んだ気がした。
足元には注意


巨徳山北條寺の概要と解説

北條寺の歴史

かつて江馬村とよばれるところに観音院という御堂があり、北条時政はこの観音像を深く信仰していたという。
ある年、源頼朝が源氏再興を祈願して、本尊が安座していた観音院に100日の間籠もり、夢の御告げを受けて挙兵、みごと源氏再興を成し遂げたと伝わる。そこで時政は観音堂を北條寺とした。

その後、北条義時の嫡男である安千代が落命した折、墓所として寺号を万徳山北條寺と改め、七堂伽藍を建立し、運慶に命じ仏殿の阿弥陀如来像を作らせた。

1499年、鎌倉の建長寺により開山され、臨済宗の寺となる。

また、この寺は後北条氏の保護を受けていたために豊臣秀吉の小田原征伐の際に堂舎が全焼。徳川家康の援助をうけて再建されるが何度も被害を受け、そのたびに再建を繰り返す。現在の本堂は1978年に建立されたもの。

北條寺の伝承

昔、この伊豆国江間の地には、大池があって大蛇が住んでいたという。
北条義時の嫡子である安千代が千葉寺の寺子屋で学問に励んでいた帰り道。
大池からあらわれた大蛇に呑み込まれ命を失ってしまう。
事件を知らされた義時は、仇を取りたかったが大蛇のやったことなので方法がわからなかった。

ある時、義時が大蛇の左眼を射ぬくと、大蛇はどこかへ去っていった。
すると、池は徐々に浅くなり、田地となったという。

以降、この地は「池田」と名付けられたのだとか。

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