黒の章とは幽遊白書の仙水編で登場するキーアイテム。そんな黒の章がネットのあちこちに流れている昨今の僕らとネットの関係について
「黒の章」を観ても僕らは変わらなかった。
御手洗「お前らは、人間が今までどんなひどいことをしてきたか知らないから善人ぶってられるんだよ。
お前らだって、あのビデオを見れば価値感変わるぜ!!人間は生きるに値しないってな。だから・・・。」
御手洗「そうさ。お前は自分が、どんな生き物か知らないのさ。たまたま平和っぽいところで生きてるからな。だが、それは人間の本質じゃない。
殺されるために並んでいる子供の列を見たことあるか?
その横に蹲ってるウジ虫だらけの死体を。明日殺されることがわかっててオモチャにされてる人間を見たことあるか?それを笑顔で眺めてる人間の顔をよ。
目の前で子供を殺された母親を見たことあるか!?その逆は!?
殺ってる奴らは鼻唄まじりでいかにも「楽しんでます」って顔つきだ。わかるか!? 人は笑いながら人を殺せるんだ!!
お前だって、きっとできるぜ。気がついていないだけでな!!」
御手洗「寝るとそのビデオの夢でうなされて起きるんだ・・・・・・さっきも殺された人達がみんなこっちを見てやがった。まるでボクがやったような気になってくる・・・・・・・・・。
どんどん自分がうす汚ない生き物に思えてくるんだ・・・・・・・・・。
わけもわからず何かを償いたくて狂いそうになるんだ・・・。誰でもよかったんだよ・・・。
どうしたらいいのか教えて欲しかった。ちくしょう。ちくしょう・・・・・・。」
これが何かといいますと、ごぞんぢ「幽☆遊☆白書」の仙水編にて敵側のシーマンこと御手洗清志が「黒の章」と呼ばれる、有史以来人間が行ってきた罪の中でも最も極悪で非道のものが何万時間という量で記憶されたビデオの内容の一部始終がわかるシーンでございます。
ただでさえ残酷な生き物である人間の、さらに残酷なものだけを記録したビデオ……連載当初は飛影でなくとも観たいと思ったものだがあれから幾数年、ネットの世界には何万時間とまではいかなくとも、まさに「リアル黒の章」とも言うべき極悪非道の映像群が無数に散らばっている状況だが、僕らは仙水や御手洗の様に人類に絶望する訳でもなく、何も変わらない日常を繰り返しているわけで。
それが良い事なのか悪いことなのかは判らんけども。
「リアル黒の章」に溢れた世界で
娯楽用途に流通させることを目的に行われた殺人行為を撮影したものを俗に「スナッフ・フィルム」という。元々は「スナッフ」という1976年にマイケル・フィンドレイ監督によって制作された映画が切欠なのは有名な話。
いま見ると「悪魔のしたたり」レベルにチープなメイクに、内容自体も処刑軍団ザップを1000倍に薄めたようなお話の為「しょうもない」印象しか抱けないのだが、なんでも公開当時は「実際の殺人が撮影されたもの」として宣伝されスタッフ・キャスト・出所一切不明でエンドクレジットもないまま唐突に終わるという粗悪な演出が逆に「リアルっぽい」として噂を呼び、劇場周辺では公開中止を求めるデモが行われていたそうだ。そうした一連の騒動が更に騒動を呼び、警察も動き出す事態にまで発展。
出演した女優の生存確認が出来たところで「ウソでした。ごめんなさい」と一件落着………とはいかないのが人間社会の不思議なトコロ。
以降も「例の映画はウソだったけど、本当にホントのスナッフ・フィルムは存在するらしい」という都市伝説が消えることはなかったという。
また、80年代には当時最新鋭の特撮技術をふんだんに無駄遣いして制作された「ギニーピッグ」が発売され、90年代には世界各国の事件・事故映像をつなぎ合わせた「デスファイル」「レア」などがインディーズショップなどを中心に販売されていたが、これは厳密にはスナッフフィルム=殺人映像ではなく、単に遺体を映してるだけの悪趣味ビデオに過ぎなかった。(ちなみにこれらが黒の章の元ネタと言われている)
「結局、スナッフ・フィルムは存在するのか、しないのか」
この論争に決着が着くことになったのが2007年にネットに突如アップロードされた「ウクライナ21」である。ウクライナのドニプロペトロウシクに住む19歳の若者2人が2007年6月から7月にかけてのわずか1ヶ月程度の間に快楽目的で21人を殺害しその様子を撮影していたものである。
06年の映画がスナッフフィルムという都市伝説を生んだとするのならば、このウクライナ21は、そうしたスナッフフィルム神話の崩壊でもあり空想を現実が凌駕した転換点ではないか。
更なる転換点が時を経たずして公開されたイスラム過激派やメキシコ麻薬カルテルによる処刑映像だ。
これをスナッフフィルム=娯楽目的の殺人映像として定義する事には異論ある者も居そうだが、それは加害者当人に肩入れし過ぎているからだ。
オフラインはともかく、オンラインの世界においては今や大衆が主導。
如何にテロリストやギャングらが大真面目に主張をしようが消費の主導権は大衆にある。
連中がネットに流通させたという事は娯楽として消費させる(そうする事で死者の尊厳を貶めるという加害者側の目的もあろう)のが最初から目的だったのだろうから原義的な意味でも本来のスナッフ・フィルムなのではないだろうか。
ISISによる後藤健二氏処刑騒ぎの際にTwitter上で起こった通称「ISISクソコラグランプリ」などはネット時代におけるスナッフフィルムの娯楽的消費の突然変異的一形態であると言えるのだが(もっとも、実際の処刑映像を観た者は少数派だろうが)、だからこそ日本の歪さが一層際立つ。
ネットは良くも悪くも現実を拡張する。だが、そうする事でかえって現実感が希薄となるのがネットの矛盾だ。死に対する自他ともの希薄さは如何ともしがたい。概念としての死には関心が希薄てあっても、娯楽目的での物体としての死には興味を抱くものは多い。
死生観が定まらないまま、死を見つめ続ける異様な状態。
もしも現代の日本に「黒の章」があったとして、それがネットに流れたとしても大半の人達は人間に絶望などしないんじゃないか。
それどころか、単に物体として処理したまま娯楽の一種として消費されるのではないかとすら思う。