一万人以上の怨念が残る京都の処刑場跡、それが粟田口刑場跡だ。江戸時代以前から刑場として使われ数多くの罪人やキリシタンが処刑された。
一万人以上の怨念が残る京都の処刑場跡,粟田口刑場跡
粟田口刑場は江戸時代以前から存在する処刑場で罪人はもとより、戦に敗れた敵方の武将やキリシタンなどが処刑され、累計で約15000人以上が処刑されたといわれている。
有名なところでは明智光秀の遺体が晒されたこともあった。
アクセス
住所:〒607-8456 京都府京都市山科区厨子奥花鳥町
最寄り駅
京阪電気鉄道 御陵駅
見どころ
粟田口刑場は京の七口のひとつで、東海道から京都への入り口でもあった。
京都以外でも、こうした大きな街道沿いには”見せしめ”として刑場が置かれておち切断された首を晒していた。
この処刑場は公開処刑跡でもあり、斬首や火刑などがおこなわれた。
江戸時代にもなると毎年3回ほど、この地で公開処刑が行われ、京都の各寺院は罪人が1000人処刑されるごとに供養碑を建ており、明治時代の廃仏毀釈により撤去されるまで15基が設置されていたという。
明治維新後に処刑場は廃止されるものの、その後に設立されたのが「粟田口解剖場」だ。
舎密局(せいみきょく)とよばれる化学技術の研究・教育、および勧業のために作られた官営・公営機関主導のもと、刑死した囚人の解剖などが行われた。現在の石碑は当時の解剖実験につかわれた人々を供養するために建てられたもの。
古くから伝わる忌み地