真如堂は九尾の狐のお堂がある。現在では九尾の狐の霊力は削がれ、真如堂のお堂に封じ込められていると言われている。
真如堂,九尾の狐を祀るお堂
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真如堂と戦乱の歴史
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いまから一千年前の永観2永年(984)を始まりとしている。一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたのが、その8年後。不断念仏の道場として行者はもとより庶民、とくに女性の信仰を得ていた。
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しかし、その後、度重なる火災や打ち壊しによって堂塔は甚大な被害を受ける。その原因の最たるものが応仁元年(1467)から11年間にわたって繰り広げられた応仁の乱だ。
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幕府管領の細川勝元(東軍)と幕府侍所所司の山名宗全(西軍)ら有力守護大名が争った戦いで、真如堂周辺は東軍が陣をしいていたため、大きな被害を受けること になった。
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もちろん、応仁の乱では京都全域が戦場となり灰燼に帰している。つまり京都のあちこちに人間の屍が散見されたということ。京都は、戦国時代には覇権を争って幾度となく戦いの場となった。それだけでも、京都の町に妖怪伝説や怨霊伝説があっても不思議なことではないと思えてくる。
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真如堂はその後、室町幕府や豊臣秀吉によって京都市内を転々とし、現在の場所に戻ったのは元禄6年(1693)。実に200年ほど流浪の旅に出ていたことになる。
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余談ではあるが、九尾の狐は元々日本の妖狐ではない。紀元前1世紀には中国、その700年後には天竺(インド)に現れた。
その後、現れたのが日本で、九尾の狐は玉藻前となり鳥羽上皇の寵愛を受けるが、成敗され、毒を発する大きな石(殺生石)となった。
殺生石は玄翁禅師によって二つに叩き割られ、殺された人々の霊を慰めるため、その石で地蔵菩薩を刻み鎌倉に地蔵堂が建てられたが、江戸時代元禄6年(1693)に「甲良豊後守宗広」の夢のお告げによって真如堂に移された。
真如堂はこんな人におすすめ
・ 箇条書きでOK
住所
住所:〒606-8414 京都府京都市左京区浄土寺真如町82
最寄駅
京阪電気鉄道鴨東線 神宮丸太町駅
「錦林車庫前」バス停を利用したほうが便利
駐車場
利用不可