木曽義高(清水冠者,源義高とも)と大姫の墓があるのは鎌倉市大船にある粟船山常楽寺という臨済宗建長寺派のお寺。開基は北条泰時で開山は退耕行勇だが「常楽寺略記」によれば北条政子が娘である大姫の供養のために建てた仏堂が寺の起こりと伝わる。
木曽義高と大姫の墓がある鎌倉市大船の粟船山常楽寺
常楽寺の楽しかったところ
・木曽義高と大姫の墓はもとより鎌倉時代を代表する偉人の墓や文化財に触れることができた。鎌倉時代の足跡を追うなら訪れたい場所だ。
常楽寺はこんな人におすすめ
・義高や大姫の墓を見たいひと
・北条泰時の墓をみたいひと
・鎌倉仏教の足跡を追いたいひと
常楽寺の注意点、欠点
・参道を行く際は足元注意
粟船山常楽寺 へのアクセス
住所:〒247-0056 神奈川県鎌倉市大船5丁目8−29
最寄駅:大船駅
徒歩:約15分
注意事項:木曽義高と大姫の墓は山道を登っていくことになるのでトレッキングシューズを履いていったほうが無難
粟船山常楽寺 のみどころ
山門
茅葺屋根の山門。
この扁額は黄檗宗の京都第二代住持木庵性瑫の筆で鎌倉市指定文化財。
阿弥陀三尊像
常楽寺の本尊である阿弥陀三尊像。
これ以外にも秘仏である文殊菩薩像があるのだが、一月二十五日におこなわれる文殊祭以外では開帳されない。
北条泰時の墓
こちらが北条泰時の墓。五輪塔と宝塔が合わさったような個性的な形状でみていて興味深い。
大応国師(南浦紹明)の墓
簡素だが奥深い造りの五輪塔。宝珠や受花、笠石といったわかりやすい部分がないため、一見すると石を積み上げただけに見えるが、下の土台部分から数えてみると地・水・火・風・空の五輪の様式になっており、観察していると感慨深いものが込み上げてくる。
畠山重忠の墓や伊東祐親の墓しかり、五輪塔というのは奥深いカタチをしているなあ。
龍淵和尚の墓
これは無縫塔や卵塔とよばれるもので、鎌倉時代に禅僧によって伝えられたもの。台座の上の石塔婆が完全な球形になっているのが面白い。
木曽義高と大姫の墓へ
境内の奥に進んでいくと大姫と義高の墓へと続く参道がある。
大姫の墓
粟姫稲荷 姫宮の墓 と書かれた看板。
これが頼朝の娘、大姫の墓とされている。そうでなければ、北条泰時の娘の墓とも言われているが略記を信じる。
木曽義高の墓
鎌倉同人會なる団体が建てた木曽塚の石碑。その裏に木曽義高の墓を発見。
「木曽清水冠者義高之墓」と書かれている。石の状態からして、長い年月が経ってそうだ。
裏には倒れた卒塔婆とミニ鯉のぼり。鯉のぼりとは男児の健やかな成長を願って始まったもの。冠者とは元服して間もなく亡くなった若者のこと。
12歳で亡くなった木曽義高を弔うためのものだろう。
常楽寺の概要と解説
常楽寺の歴史
鎌倉市の大船にある粟船山(ぞくせんざん)常楽寺。なんでも、この粟船(あわふね)が訛って大船の地名になったらしい。「あわふね」から「おおふね」、何をどう訛ったらそうなるのか判らんが、とりあえずそういう事らしい。
この寺は鎌倉幕府の三代執権である北条泰時が義母の供養の為に建てられたもので、嘉禎3年(1237年)の粟船御堂が始まりと言われている。
供養の際は、源頼朝や北条政子が帰依した退耕行勇(たいこうぎょうゆう)が導師を勤め、五代執権・北条時頼の時代には寿福寺から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招いて臨済宗の寺となった。
蘭渓道隆は建長寺を開山する前にはここを拠点に禅を広め道場が開かれた。
そのため常楽寺は「建長寺の根本」とも言われている。
1242年(仁治3年)に亡くなった北条泰時の墓もここにある。
木曽義高と大姫の墓の歴史
この常楽寺の裏山には、木曽義高の墓と伝わる木曽塚がある。
かつて、ここから離れた処に木曽免と呼ばれていた場所があったそうで、そこに五輪塔(武士の墓)が建っていたという。
延宝8年(1680年)に、石井次左衛門という土地の所有者が塚を掘ってみると骨壺が出てきたそうで、「これは義高の骨ではないか?」ということになり、常楽寺の裏山に埋葬することになったそうだ。
木曽義高とは
木曾義高(源 義高)は旭将軍と呼ばれた木曾義仲の長男。
源頼朝と北条政子の娘である大姫の婚約者だったが、父である義仲が頼朝に背いたことで立場が悪化。粟津の戦いで敗死する。
享年12歳。
清水冠者(志水冠者)と号されるが、冠者とは元服して間もない若者のこと。
大姫とは
大姫(おおひめ)は、源頼朝と北条政子の長女。本名は一幡とする説がある。
6歳の時に義仲の嫡男・義高と婚約するが、義仲の敗北に伴い義高が処刑されたことに衝撃を受け心を病んでしまう。
義高の一件がよほどトラウマだったのか、のちの縁談を拒み続け20歳で早世してしまう。
義高との大姫の最後
寿永2年(1183年)、義高の父である義仲は以仁王の遺児・北陸宮を奉じて信濃国を中心に勢力を広げており、同じ源氏の源頼朝とは独立した勢いを見せた。
また頼朝と対立していた叔父の志田義広と新宮行家を庇護した事により、3月には頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。
源義仲は、長男で当時11歳の源義高を人質として鎌倉に送り、当時6歳の大姫の婿とする事で頼朝と和議を結ぶが、ふたりの関係は悪化し、翌年の寿永3年(1184年)正月、義仲は頼朝の送った源範頼・源義経らによって討たれてしまう。
その後、頼朝は鎌倉の義高殺害も決定するが、その事を侍女たちから知らされた大姫は、明け方に義高を女装させ鎌倉を脱出させるも、夜には露見してしまう。
これに激怒した頼朝は、軍を各所に派遣して義高を討ち取るように命じ、4月26日(6月6日)、親家の郎党である藤内光澄により入間河原で義高は討ち取られてしまう。
当初、この事は内密にされていたが、やがて大姫の耳に入ると水も喉を通らなくなるほど酷く憔悴してしまったという。
政子は大姫が日を追って憔悴していくのは義高を討ち取った男の配慮が足りなかったせいだと憤り、頼朝に強く迫って藤内光澄を晒し首にする(理不尽)
しかし、その後十数年を経ても大姫は床に伏せ続け義高のための追善供養や各寺院への祈祷などが行われたが病から回復する事なく死去してしまう。