静岡県伊東市には鎌倉殿の13人でおなじみ、平安時代末期の武将である伊東祐親(いとうすけちか)の墓が存在する。とても力強い造形の墓なので、まるでパワースポットみたいだった。
伊豆観光で史跡をまわりたい人や伊東祐親ゆかりの地を探している人は行ってみるのも良いんじゃないだろうか。
伝・伊東祐親の墓の個人的評価
五輪塔という形態は武士階級の墓に多くみられる。
伊東祐親の五輪塔は遠巻きから見ても力強さが伝わってくる。
畠山重忠の墓と同じく、見ているだけで元気をわけてもらえる気がする。
何より現地の人達が優しかったことが嬉しかった。
伊東祐親ゆかりの地、静岡県伊東市にある伝・伊東祐親の墓は住宅街に佇む隠れパワースポットだ
伝・伊東祐親の墓 の楽しかったところ
現地の人達が優しかった
伝・伊東祐親の墓 で得られるもの(ご利益など)
地元の方々から尊敬されている英雄の墓から伝わる力強さかを見ていると、妙に元気がわいてくる
伝・伊東祐親の墓 はこんな人におすすめ
静岡県伊東市での隠れたパワースポットを知りたい
伊東祐親のお墓を知りたい
伝・伊東祐親の墓 の注意点、欠点:
周囲は住宅街なので騒音を出したりゴミを捨てたりしないようにお願い致します
伝・伊東祐親の墓 へのアクセス
住所:〒414-0046 静岡県伊東市11
最寄駅はJR伊東線伊東駅
徒歩で15~20分ぐらい。
注意事項:タクシー使ったほうが楽。
伝・伊東祐親の墓 のみどころ
取材のために伊東市くんだりまでやってきた訳やが、正直なハナシ駅につくなり歩いていくのが嫌になりましてな。駅から結構な距離があるというか、住宅街の中。こんなところまで歩いていったら日が暮れてまうがな。
そんなこんなでタクシーを借りて目的地までGOすることにした。
当初は伊東祐親の館跡(伊東館跡)に行こうと思ったんやが、運転手さんに聞いてもサッパリ。
そこで運転手さんが近所の老婦人に場所を聞いてくれたのだが、そちらもサッパリ。
グーグルマップで確認してみると、伊東市役所の隣りにある物見塚公園が館跡らしいが、畠山重忠公史跡公園の時のように墓がある訳でもない単なる公園のようだ。(後日調べてみたら、伊東祐親の銅像があったので写真だけでも撮っておけばよかったなあと後悔)
途方に暮れていると、老婦人が「それだったら伊東祐親の墓でも見ていきなされ」との事だったので、素直に従うことにした。
運転手さんと共に老婦人に礼をした後、現地に辿り着くと周囲は普通のアパートが立ち並ぶ住宅地。
しかし、その一角に何やら厳かな雰囲気ただよう場所があった。
鎌倉と同じく、一般住宅の間に普通に存在するのが日本の面白いところだよな。
よく見ると草木に隠れて「伊東祐親……」と書かれた石碑がある。
なお、この写真の両隣は民家である。なので、どこから入れば良いのか判らなかったので垣根越しに写真撮影。
迂闊に敷地内に入って不審者扱いされたくないしね。
あれ?鎌倉でもこんな事あった気がする。
伊東祐親の墓とされる五輪塔 。伊豆の国市の指定文化財で鎌倉時代後期のもの。
畠山重忠公の五輪塔にも似た質実剛健な造りで武士の墓に相応しい力強い造りで厚く慕われていたことが伺われる。
この写真だと見辛くて申し訳ないが、この墓は安山岩という火成岩から造られたものだが、五輪塔を構成する部材である空輪,風輪、火輪、水輪、地輪(上から順)は、それぞれ時期が異なるのだとか。
空輪,風輪、火輪、水輪が14世紀前半、地輪が13世紀の製作と考えられている。
地輪は五輪塔の土台にあたる部分なので、当初は土台しか無かったのか、それとも何らかの理由で地輪以外を失ったため新たに作り直したかのどちらかだろうか。
高さは140.5センチメートルと、畠山重忠公の五輪塔と変わらぬ大きさ。
そういえば、タクシーの運転手さんも老婦人も地元の英雄みたいな感じで伊東祐親のことを語っていたなあ。
北条時政の墓とは大違いですね。
そして、タクシーを時間貸しに変更して次の伊東祐親ゆかりの場所へと向かった。
伝・伊東祐親の墓 の概要と解説
伝・伊東祐親の墓 の歴史
この墓所の周囲には、伊東家が建立した東林寺や伊東家祈願所の葛見神社など同家ゆかりの史跡が本郷の地を取り囲むように設けられている。
この伝・伊東祐親の墓所もそのひとつである。
五輪塔は繁栄を続けた伊東家の子孫が鎌倉時代末から南北朝初期頃に先祖供養 のために造立したものとみられている。
伊東祐親について
伊東祐親は、伊豆に流された源頼朝の監視を平清盛から任された人物、武将。
その際に、源頼朝を丁重に預かっていたが、しばらく後、娘である八重姫と頼朝の間に子供が出来てしまう。
苦渋のすえに稚児ヶ淵へ、その子供を沈め殺害。
その後、頼朝挙兵に際し、平氏側の祐親はこれを撃破するが、敗れて捕われの身となってしまい、女婿である三浦義澄に預けられる。
しかし、源平合戦の際には頼朝から源氏側に付くことを打診されたが、平氏への忠義から拒否。
その際に義澄による祐親の助命嘆願がなされ、頼朝からも受け入れられるも、祐親本人はこれを潔しとせず自害してしまう。