伊東祐親が開基した静岡県伊東市の東林寺で曽我兄弟の墓に参拝してきたんだが無数の石仏が圧巻だった。

静岡県伊東市にある稲荷山東林寺は伊東祐親が開基となったゆかりの寺で伊東氏の菩提寺となっている。ここは日本三大仇討のひとつである曽我兄弟の仇討で有名な曽我兄弟の墓や、その父親である河津三郎祐泰の墓がある事でも知られている。伊東氏ゆかりの地をまわりたい人にはオススメの場所となっている。

また、伊東市には伊東祐親の墓や娘の八重姫ゆかりの音無神社があるのでそちらもオススメしたい。

おすすめ度

評価 :4/5。

稲荷山東林寺の個人的評価

特にオススメなのが参道のあちこちに点在する石仏たちだ。素朴な風合いの石仏が見ていて癒やされる。

伊東祐親が開基した静岡県伊東市の東林寺で曽我兄弟の墓に参拝してきたんだが無数の石仏が圧巻だった。

稲荷山東林寺の楽しかったところ
素朴な風合いで彫られた無数の石仏群

稲荷山東林寺で得られるもの
石仏に囲まれながら険しい参道を進んでいく冒険感

稲荷山東林寺はこんな人におすすめ
伊東祐親ゆかりの地をまわりたい
曽我兄弟の墓を知りたい
相撲ゆかりの地に行きたい
伊豆の札所で御朱印めぐりをしたい

稲荷山東林寺の注意点、欠点:
遠いからタクシーで行こう。参道が険しいのでトレッキングシューズ推奨。

稲荷山東林寺へのアクセス

住所:〒414-0033 静岡県伊東市馬場町2丁目2−19
最寄駅は南伊東駅、バスで行くかタクシー推奨
徒歩:約30分
注意事項:曽我兄弟の墓や石仏を見るならトレッキングシューズを履いていったほうが良い


稲荷山東林寺のみどころ

山門(仁王門)

東林寺の山門。綺麗に手入れされており清潔感のある印象。

仁王像

仁王門の中には当然のことながら仁王像。かなり装飾が多いタイプ。

木目を強調した作風の仁王像。

本堂

龍の透かし彫り。赤味がかった木材を使用しているのが印象的。

獅子の飾り付け。

鐘楼堂

鐘楼堂の上の高台に曽我兄弟の首塚と河津三郎祐泰の墓がある。

鐘楼堂のふもとには菩薩像。曽我兄弟の墓への道のりは険しいのでお参りしてから登ろう。

曽我兄弟の墓への道のり

河津三郎祐康参道と書かれた石碑。
それじゃあさっそく行ってみよう。

石仏三十三観音

ちなみに、首塚へ至る参道には無数の石仏が置かれている。
足元は少し険しいが石仏の素朴な風合いを楽しみながら目的地へ向かうのも楽しい。

それにしても険しい道。スニーカーではなくトレッキングシューズを履いていくのがオススメ。
ちなみにタクシーの運転手さんと一緒に境内を参拝していたのだが、こちらの参道を見るなり「車内でお待ちしております」とのこと。

来ないんかい

申し訳程度に置かれた手すり。お寺って大体そんなもんです。

参道のいたる所に石仏がある

とにかく足元だけを見て一歩ずつ確実に進んでいくことが大事。

参拝者を応援するように鎮座する石仏たち

こちらは個人的にお気に入りの千手観音。たぶんひとつぐらいは自分の好きな石仏が見つかると思う。

曽我兄弟の首塚
曽我兄弟の墓1
曽我兄弟の墓1

という訳で、曽我兄弟の首塚に到着。

曽我兄弟の墓2
曽我兄弟の墓2

これが曽我兄弟の首塚である五輪塔。新しい見た目をしているので後年に作られたものだろう。

曽我兄弟の墓3
曽我兄弟の墓3

相輪部分が見当たらないが宝篋印塔の一種だろう。崩れてしまったのかな?

河津三郎の墓
河津三郎の墓(静岡県伊東市)
河津三郎の墓(静岡県伊東市)

そしてこちらが河津三郎の墓。武士の墓に多い五輪塔だが、通常は球形である水輪(上から四段目)が変形して楕円状になっていて珍しい。


稲荷山東林寺の概要と解説

稲荷山東林寺の歴史

稲荷山東林寺は静岡県伊東市にある寺で久安年中(1145-1150)に建てられた。
十二世紀中頃には真言宗久遠寺と称していたが、伊東祐親が工藤祐経の恨みを受け不慮の死を遂げた息子、河津三郎祐泰の菩提を弔うために仏門に入り東林院殿寂心入道と称したことにちなんで東林寺と改めた。

天文七年(1538)に円芝春徳大和尚を開山として曹洞宗に改宗し現在に至る。
本尊は延命地蔵菩薩。
伊東七福神のひとつである布袋尊(福寿財宝の神)を祀る。(伊東七福神第三番布袋尊札所)

伊東祐親が開基となっているため、この寺は伊藤家代々の菩提寺となっており伊藤一族の位牌が安置されており、この寺の本堂内部の一角 (向かって左) は、伊東家の ための区画となっている。
また、伊東祐親の 木像や、頼朝と八重姫のの子である千鶴丸の木像もある。

その他では弘法大師伊豆八十八ヶ所二十七番札所でありお遍路コースのひとつになっている。
ちなみに祐親の墓は、この寺の向かい側の丘の上 (大原一丁目) にあり、伊東市の指定文化財となっている。

河津祐泰(かわづ すけやす)について

伊東祐親の長男。父の伊東祐親から河津荘を相続したため、河津姓を名乗った。
祐泰は、工藤 祐経(くどう すけつね)との領地争いのもつれから、 相手方の矢にかかり命を落としてしまう。

その後、祐泰の遺児二人が、母の再婚先である曽我で成長後、富士の裾野で父の仇を討つ、というのが有名な「曾我兄弟の仇討ち」

なお、祐泰は相撲で名を残した人物でもあり、相撲の技である「河津掛け」は俣野五郎景久をやぶった技に由来しているという。昭和34年(1959)には、相撲が縁で日本相撲協会の碑が建てられ、当時の時津風親方を始め、横綱双葉山、栃錦や若の花一行の土俵入りが行われ伊東祐親公の霊を弔ったそうだ。

曽我兄弟について

河津祐泰の息子である曽我祐成(そが すけなり)と曽我時致(そが ときむね)のこと。
「富士の巻狩り」とよばれる源頼朝主催の大規模な狩猟大会にて父親の仇である工藤祐経を討つという事件を起こす。
これが前述の「曾我兄弟の仇討ち」で、日本三大仇討ちのひとつにかぞえられる。
武士社会において仇討ちの模範とされているが、同兄弟は工藤祐経を討った後に頼朝の宿所も襲撃していることから、頼朝を暗殺しようとしていたとも言われている。

なお、その説の黒幕は北条時政と言われている(またお前か)

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