犬神憑きとは、無知と偏見、科学の未発達が生み出した日本の差別の歴史である。村社会特有の気持ち悪い歴史に触れながら二度とこのような差別を起こさないための戒めとしよう。
犬神憑き、無知と偏見が生み出した日本の差別の歴史
そもそも犬神憑きとは?
犬神憑きとは一種の憑依現象(憑き物)のことで、取り憑いた者に精神異常を与えるとされる。
平安時代の頃から鬼神を使役する「使鬼神法」の一種として、修験道では役小角が、陰陽道では安倍晴明が使用し、敵対者のところに送り付け病気や死を生じさせる呪法として恐れられた。
犬の霊以外にも狐などの動物霊が使役され、そのカタチは地方によって様々。関東地方ではオサキ狐、中部地方では竹筒の中にいれて使う管狐、中国・四国地方では蛇が、高知のいざなぎ流では蛇や猿などが用いられた。
怖ろしすぎる犬神の作り方
この犬神を使役するための工程が実に怖ろしい。
そのやり方というのが、犬を生きたまま首だけ出した状態で地面に埋めた後、目の前に肉を置いたまま飢えさせるといったものだ。そして、飢餓状態の犬に対して「お前の魂をよこすなら、この肉を与える」と言った後に、その怨念を呪いとして用いるというもの。
犬神憑きと差別の歴史はなぜ起こったのか?
元々は陰陽師らによる敵対者への呪法として用いられていたハズのものが、なぜ差別に繋がっていったのだろうか?
ひとつが呪術的な解釈によるもので、なんでも犬神の霊は前述の生成法から常に飢餓や渇望に苛まれており食物や財宝を何でも集めてくるという性質を持っていたと考えられていたからだ。
(呪詛以外にも、乾燥させミイラ化させた犬の頭部を袋にいれて隠し持つ事で遠くの物事を知ることが出来ると考えられていた)
そのため、古来より急激に資産が集まった家のことを「犬神を飼う家=犬神筋」として、妬み嫉みの対象とする風潮があった。
そうした風潮に付して、もうひとつが犬神が取り憑いた事による精神異常の類は代々受け継がれると考えられていた。
こうした家系は「スジ(筋)」「クロ」「ワルイホウ」と呼ばれ差別されていた、逆にそうでない普通の家は「シロ」「イイホウ」などと呼ばれていたが、こうした「シロ」の家系の者でも「クロ」の家系の者と結婚すると、当事者はもちろん家族や親戚すらも「クロ」に貶された。
このため、当時は「クロ」と「シロ」の結婚は厳しく禁じられ、もしも結婚する場合は親子関係を断ち切られる「縁切り」が行われた。つまり、祝儀不祝儀の交際、共同体による相互扶助、日常生活での交流が一切絶たれてしまうのだった。
この縁切りをしないと親の家も「クロ」として扱われてしまうというが、実際には「クロ」の家と結婚した「シロ」の家系は「ハンパ(半端)」や「ハイイロ(灰色)」と呼ばれ、徐々に村から疎外されていったという。
人類学者の吉田禎吾氏による調査では、60年代後半まで犬神憑きによる差別が子から孫へ継承され、村を去らない限りは永続的に差別が続いていた。
科学が解明した悪魔憑き
こうした事例は海外でも「悪魔憑き」とよばれ、時には信仰上の試練として、あるいは魔女裁判と結びついて人権上の多大な問題をもたらすことも多かった。
60-80年代までは、世間のオカルトブームと結びつき、世間の好奇の目に晒されることもあった。
特に映画「エクソシスト」の元ネタになったとされる「メリーランド悪魔憑依事件(後に家族ぐるみでの狂言と判明)」やアンネリーゼ・ミシェル(1952-1976)の事件が有名だ。
特にアンネリーゼ・ミシェルの事件は宗教と絡んだ医療ミス事件として論争を呼び、2005年には「エミリー・ローズ」という映画にもなった。
アンネリーゼ・ミシェルは当初は精神病として診断されたが、長年治療していたが改善する気配が無かった為、後にカトリック教会教区より正式に「悪魔憑き」として認定されたのだが、この事件で行われた悪魔祓いの儀式が18世紀以来行われてこなかったもので、こうしたカトリック教会の異例の措置がマスコミの注目を浴びることになった。
しかし、そんな事で症状が改善する訳もなく、アンネリーゼの症状は日を追うごとに悪化。1976年7月1日に死亡してしまう。
この前時代的すぎるカトリック教会の司祭とアンネリーゼの両親へ当局による起訴・裁判が行われる事になる。罪状は過失致死傷罪、保護責任者遺棄致死罪などであった。
この事件は、現在では精神医学の世界ではこの事件を精神障害の誤認や宗教的ヒステリーの一例として挙げられている。
日本のみならず海外でも、前時代的な価値観や偏見による差別や犠牲が生まれていたが、時代が進むごとに医療研究が進展し、現在では悪魔憑きの医学的メカニズムは解明されている。
悪魔憑きの正体は「抗NMDA受容体脳炎」という急性型のウイルス性脳炎だった。
この脳炎に罹患すると、合併症で長期の精神的または行動敵な異常を引き起こすことが報告されている。日本でも60年代から医学部によって報告されていたが、2007年にペンシルバニア大学の医学部によって解明され疾患概念として提唱された。
報告されている中では、その罹患するのは80%以上が若年女性であるという。
特に2011年の9月にアメリカに留学中だった21歳の日本人女性の症例が知られている。
彼女はある時から頻繁に頭痛を起こすようになったほか奇声や異常行動を繰り返すようになり、医師の診断を受けることになり、前述の「抗NMDA受容体脳炎」であることが判明。
現代に起きた悪魔憑き事件としてマスコミなどでも騒がれたが、日米の病院で根気強く治療を続けた結果、現在は回復しているという。
差別だけでは語れない社会の複雑さ
だが、社会というのは複雑怪奇だ。
前述の通り、憑き物筋には結婚差別や村八分といった問題が多かった反面、村の政治や経済においてはリーダーシップをとる事も多かったという。島根県のある集落では代々の村のリーダーは狐憑きの家系が握っていることが多く、そうした家は経済的にも富裕である事がほとんどだったそうだ。
また、憑き物に憑かれない為には人々との、特に「犬神」や「キツネ」は血縁関係のない人々との争いを避けなければならず、特にねたみ深く、気性の激しい人に憑きやすいと考えられ、仮に憑依されたと思われると「封じ込め」と呼ばれる村ぐるみでの暴力的な除霊の儀式が待っていた。
その為、そうした気質を持った人間だと思われない様に「クロ」も「シロ」も穏やかに行動しなければいけなくなると言う。つまり、こうした憑き物信仰は集落内の葛藤やクロとシロの対立を緩和させ、ひいては村の秩序を維持させる機能を持っていたのだという。