北条義時が住んでいたゆかりの場所、北条義時邸跡がある伊豆の国市の江馬公園

NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人の主人公でおなじみ北条義時の館跡(北条義時邸跡)は静岡県伊豆の国市にある江馬公園として整備されている。北条義時ゆかりの地をまわりたい人にはマストな場所のひとつだが、ぱっと見ただの公園なのでコレだけを目的にするとガッカリするが、近隣には北条義時夫妻の墓がある北条寺もあるのでついでに立ち寄るのが無難。

おすすめ度

評価 :3/5。

北条義時邸跡(現:江馬公園)の個人的評価

一見すると、ただの市民公園。言われなければ誰も気づかない。
とりあえず、付近には北条義時の墓のある北条寺があるので、ついでに立ち寄るのがオススメ。

北条義時が住んでいたゆかりの場所、北条義時邸跡がある伊豆の国市の江馬公園

静岡県伊豆の国市にある北条義時邸跡(現:江馬公園)に行ってきたのでレポ。

北条義時邸跡(現:江馬公園) の楽しかったところ
よく観察すると「ああ、館跡っぽいかも」と感じられる

北条義時邸跡(現:江馬公園) で得られるもの(ご利益など)
トイレや自販機があるので史跡めぐりの休憩に

北条義時邸跡(現:江馬公園) はこんな人におすすめ
北条義時の住んでいた場所をみたい
静岡県で北条義時ゆかりの地をまわりたい
北条義時が好き
鎌倉時代ゆかりの史跡に興味がある

北条義時邸跡(現:江馬公園) へのアクセス

住所:静岡県伊豆の国市南江間828-4
最寄駅:伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅
徒歩:約15分


北条義時邸跡(現:江馬公園)のみどころ

ここが北条義時邸跡。言われなければ、ただの市民公園にしか見えないが写真右側の小高い山が、何となくそれらしく見える。

この敷地のすべてが邸宅跡だとすると、なかなかの広さの屋敷だったと思われる。

歴史を感じさせる柳の木。

なお、この江馬公園の前には「地震動の擦痕」と呼ばれるものが展示してある。
これは1930年に起きた北伊豆地震の痕跡を残したもので、地震による激しい揺れで、台座から突き出ていた突起物が地震計の役割をはたし、天然の地震グラフ曲線ができたというもの。
人工物ながら天然記念物として登録されているものである。


北条義時邸跡(現:江馬公園) の概要と解説

北条義時邸跡の歴史

北条義時邸は平安時代末期に建てられ、源頼朝公から江間の地を与えられた義時公は江間小四郎を名乗り館を構えたと伝えられている。それが、この江馬公園である。

また、近くには北条義時夫妻の墓がある北条寺(北條寺)もある。

なお、北条氏邸跡(円成寺跡)をお探しの方はこちら。

こちらは北条時政が住んでいた場所である。

北条氏の起源

北条氏は桓武平氏高望流の平直方を始祖とし、伊豆国田方郡北条(現在の静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族。ただし、現在伝わる北条氏系図の中には時政以前の系譜において食い違うものも多く、関東で成立した軍記物語『源平闘諍録(げんぺいとうじょうろく)』では、伊勢平氏の祖・平維衡の子孫とされているなど、出自については現在に至るまでよく判っていない。

三浦氏・千葉氏・小山氏・秩父氏など他の東国有力武士団では、何代 も前から多くの有力な一族を各地に分派させて同族集団を形成しているが、 北条氏には時政以前の分流が甥といわれている北条時定の系統の他は見られず、時政の兄弟の存在すら不明であるという。

世に伝わる諸系図では時政の祖父が時家、父が時方(または時兼)という点では一致しているものの、こうした状況は北条氏が自家の系譜が正確に伝わる家ではなかっ た事を示しているとして、桓武平氏の流れであることを疑問視する研究者もいる。

時家の『尊卑分脈』傍注には「伊豆介」とあるが、『吾妻鏡』では40歳を越えた時政に「介」や都の官位などに就かず、ただ「北条四郎」「当国の豪傑」と のみ記されており、保有武力に関しても石橋山の戦いの頼朝軍の構成を見 る限り突出した戦力を有していた訳ではないことから、北条氏の勢力は伊豆においても中流クラスの存在であったとするのが一般的な見解になっている。

一方で、北条氏の本拠は国府のある三島や狩野川流域に近接して軍事・交通の要衝といえる位置にあることから、国衙行政や交易などに長けており、 所領は小さいが富強であったとする見解もある。

北条義時について

北条義時(1163年~1224年)は鎌倉幕府の二代執権。父は北条時政、母は伊東祐親の妹。江馬小四郎とも呼ばれる。

1180年8月、源頼朝の挙兵に参加したが石橋山の戦で 兄の宗時が戦死した為、嫡子となる。

1184年(元暦元)源範頼軍に従い 西国遠征。翌年の正月、頼朝から豊後国芦谷浦の合戦での功を賞され、奥州合戦(1189 年)に参加した頃より頼朝の信任を得る。

頼朝の死後の1199年に「十三人の合議制」とよばれる宿老会議の一員となるも、この辺りから父親である時政と継母である牧の方が政敵を謀殺しまくるなど色々とやらかす。

有力御家人である梶原景時、頼家の外戚である比企能員一族の抹殺など、北条氏の地位を一段と高めるためにやりたい放題し始める。

1205年には父の命で畠山忠重とその一族を滅ぼしたが、重忠と義時は義兄弟のうえ友人関係にあった為、父との対立が決定的になり、7月には継母である牧の方が、頼朝の猶子である平賀朝雅を新将軍として擁立しようとした為、ついに反旗を翻す。

その後は姉である政子とともに両親を伊豆へ追放。その後は第二代執権となり鎌倉幕府の最高指導者となる。
幕府と朝廷の対立が激化すると、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧(承久の乱)。 戦後に天皇を廃し3人の上皇を配流することになる。

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