トーマス・ミュンツァー!ルターから訣別された宗教改革者

トーマス・ミュンツァーはルターと共に宗教改革に身を投じた神学者だったが、同時に神の千年王国建国を目指したオカルティストでもあった。

トーマス・ミュンツァー!ルターから訣別された宗教改革者

トーマス・ミュンツァーとはルターと共に宗教改革に身を投じた神学者だったが、同時に神の千年王国建国を目指したオカルティストでもあった。

15世紀末から16世紀初頭にかけて、スイスや西南ドイツでは農民による一揆が頻発していた。

当時の農民たちは、法的保証もないまま領主から不確定な負担を強いらていた他、教会からも収穫物の10分の1を徴収されており、農民や下層階級の不満は頂点に達していた。

こうした最中、1524年にドイツ農民戦争(大農民戦争)が勃発。

この反乱の代表的指導者がトーマス・ミュンツァーであった。

宗教改革の代表的人物でもあるマルティン・ルターのグループにも参画していたトーマスだったが、自身の体験に基づいた神秘主義思想と結びつきカルト的な社会変革の思想を掲げるようになっていた。

トーマス・ミュンツァーとは何をした人物か?

・15世紀後半から16世紀の神学者で宗教改革者
・宗教改革運動の代表的な人物であるマルティン・ルターとは旧知の仲
・神学者だったが、同時に大司教に反対する結社のメンバーでもあった
・活動を続ける中、神秘主義と千年王国論が結合したカルト思想に傾倒し始める。
・ラテン語で行われていたカトリック礼拝を、ドイツ語で執り行った最初の宗教改革者

ルターとの出会い

このとき、彼は説教をしながら各地を遍歴していたが、その間に教会の記録文書とともにアウグスティヌスやタウラー、神秘主義者のヨアキム・デ・フィオレ、エックハルトに関連した文書などを通読し、感銘を受けていた。

そして、彼の掲げる救済の根本とは自己の内面を徹底的に純化させ、現世的欲望を克服することであった。

彼いわく「神の領域に至るまで自分自身を純粋化させなければ真の救済は得られず、また神や聖霊を信じることは不可能である」という。

やがてドミニコ会の神秘主義と中世後期からドイツ各地で展開されていた千年王国論が結合し、純粋化した人々による社会変革を内に秘める事になる。

最初の宗教改革

1519年には、ルター派の拠点であるヴィッテンベルクに滞在し、ルターの主張を代弁する形で聖職者や聖人への崇敬を攻撃する説教を行い、農民や貧困層を組織化する活動を開始。

その第一歩として、トーマスはそれまでラテン語で行われていたカトリックの礼拝をドイツ語で執り行ったのだった。

彼によれば、これまでラテン語が用いられ続けていたのは民衆にキリストの教えを伝えようとしない聖職者の怠慢であり、教会による聖書の独占であると云う。

トーマスによる、ドイツ語による聖書の朗読と聖歌合唱は、またたく間に大衆を魅了し多くの支持を集め、影響力を増していった。

この試みは1523年の復活祭のときにアルシュテットで試みられ、後に各地でもこのやり方が採用され、定着することになったが、一方で「汝ら祭壇を覆し、聖像を毀すべし」という題目で行われた過激な説教によって、信徒たちが礼拝堂を破壊するなどの事件が頻発するなど急速なセクト化が進み、危険視されるようになる。

だが、多数の支持者を得たトーマスは「神の正義が地上を支配する日がやってくる」という確信を得ることになる。

ドイツ農民戦争とルターとの決別

次第に社会変革の旗手へと祭り上げられたトーマスは1525年3月にミュールハウゼン市を占拠し、ここを農民戦争の拠点と自身の掲げる「革命」を目指すことになる。

そして、神秘主義思想に根付いた千年王国建国を目指すトーマスはあらゆる偶像の破壊だけでなく、人々の財産の共有化を主張するが、これにより個人や地域の利益保全を目指す穏健派が分裂。

また、ルターは即座にこの革命を否定。人間には善を認識し実現する能力はないとするルター派と対立するのは半ば必然であったとも言える。

そして、シュヴァーベン同盟を中核とする傭兵軍によるフランクハウゼンの戦闘で農民軍は壊滅。

逮捕されたトーマスは自分の過ちを撤回させられた後に斬首された。

その際に「敗北は、人々がキリスト教界の改革よりも自分自身の利益を求めたことに起因してる」と述べたという。

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