「思いやり」という言葉の気持ち悪さは何処から来るの。

思いやりの心は大切だが、それを臆面もなく平然と言い放てる人間には気持ち悪いやつが多い。他人の為ではなく自分の為に使っている奴が殆どだ

「思いやり」という言葉の気持ち悪さは何処から来るの。

「他人を思いやる」という気持ちは大切だが、そうした言葉を平然と口にする奴は気持ち悪い奴が多い。

空虚で寒々しくて、独りよがりを見せ付けられているようで、他人の為ではなく自分の為に「思いやり」という言葉を使っている感じがして気持ちが悪い。

「やらない善より、やる偽善」という言葉がある。
それは確かにその通りだと思うが、この国の偽善っていうのは、偽善ですらない様にも思える。

例えば、「被災地の為に千羽鶴を折りました」とか、「被災地の為に歌いました」とか、そういった類いだ。

これは善でも偽善でもなく、ただの独りよがりだろう。

平気でこうした綺麗事をほざける奴が心底嫌い。

世間を見回すと、こうした偽善以下の事が出来る奴が溢れかえっているようにも思える。

特に、男でそうした行いが出来る奴は心の底からのクズ野郎だと思っている。それか、アレな宗教に幼少期からドップリつかってる奴だ。

「曲がった事が大嫌いです」とか「正々堂々」とか「努力」とか「根性」とか「愚直」とか、そういった類いの事を平気で吐ける奴は、十中八九ウソつきのクズ野郎である。

大体さ、曲がった事の何が悪いのか良く判らないんだよね。

身体の大きい奴と小さい奴が正々堂々とタイマンしたら身体の大きい奴が勝つのは当たり前だし、この場合はむしろ正々堂々を押し付けてくる方が卑怯と言うもの。
身体の小さい者は正々堂々と曲がった事をして勝負にのぞむべきであって、それこそが真に対等な勝負であると言える。

まあ、それはともかく「思いやり」とか「あなたの為だから」に代表される言葉って、他者をコントロールする為の手段にしか思えないのよね。

大多数の人間が逆らえないであろう道徳や倫理といったものを盾に、他者の言論や行動を封じて自分のペースに持ち込もうとする卑怯な奴にしか思えないのよ。

人間は優しさを否定出来ない。
だからこそ、本当に邪悪な人間は優しさを使って人を貶める。

更に厄介なのは、偽善的行為って他者に伝染するんだよな。
優しさを否定するのは個人相手なら容易いが集団相手に否定するとなると滅法難しくなる。
グループの秩序を乱す存在として途端に異端者扱いだ。

特に日本では、個人の権利よりも集団の秩序が優先される。
下手をすれば、病むまで追い詰められ自ら命を絶つ事になりかねん。

ならばどうすれば良いのか。

方法は二つある。

逃げるか、暴力を振るうかだ。

前者はともかく、後者に関しては時と場合による。下手をすれば裁判沙汰になりかねない。

だが、暴力は有効である。
追い詰められた人間に残された最後の手段は暴力以外にない。
むしろ、暴力の何が悪いとすら思っている。

暴力という言葉が嫌いならば、戦闘、闘争と言い換えても良い。

そして、暴力の手段とは肉体的手段だけではない事を知れ。

暴力にも種類がある。そして、社会的には暴力とみなされない暴力がいくつもある。

自分に必要な暴力手段は何であるのか、それを考え、探し、闘え。

俺の人生は俺だけのもの。
お前の人生もお前だけのもの。

ちなみに家庭問題で苦しんでる場所は素直に肉体言語。これは鉄板な。
特に親の暴力に苦しんでる子供は、殺さない程度に反抗しましょう。

むしろ、親との骨肉の争いは神話の時代から続く永遠のテーマ。
それを乗り越えるからこそ、物語が生まれるのです。

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